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歴史資料から見る西川材 その2

   

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林業前の西川地域の産業

西川林業地の中心である飯能市一帯は、地域の70パーセント以上を山林が占めています。

田作も畑作も地形状態から僅少なため、山林に依存する生活以外に生業の方法が無かったのではないか?と考えられます。
戦国時代末期、後北条氏の勢力下に西川地域があった頃、山林保護の制札が出されています。
(永田村細田家文書並びに、『新編武蔵風土記稿』の高麗郡飯能村の項)
この頃は自然林を利用していて、この文書は後北条氏の支城である八王子城の建築材確保のために自然保護を図ったものと考えられています。
材木としては自然林を伐採したものであり、現在の西川林業とは遠くかけ離れたもので、産業とは言いがたい状態でした。

『新編武蔵風土記稿』によれば「年穀わずかに3分の1」と書かれています。

山間部に住んでいる人たちは、1年の3分の1程しか食料がまかなえない状態で、他で生計を立てる必要がありました。
後北条氏は秩父郡の村々に炭の貢納も課しています。
薪炭の生産地としてこの地方が注目されていますが、これも林業といえるほどのものではなかったようです。

和紙の生産

飯能地方が和紙の生産地であったといっても、現在は一つも生産されていないことから信じられない話です。
江戸時代初期には相当多量な生産をしていたようです。
文献として現存しているモノは少なく、慶長2年に検地が行われた検地帳が飯能市域には5冊現存しています。
その中の記録には、生産高の表示が「石高制」ではなく、「貫高制」で表記されている部分があります。
コレは、「此内三貫七百五十文 御杉原地」と書かれており、「杉原紙」の原料である「楮(こうぞ)」や「梶(かじ)」の栽培地ではないかと思われます。
ウィキペディアにて「杉原紙」を調べてみると、上質な和紙で「杉原式で漉いた紙」の総称が「杉原」と称されていたようです
現在、埼玉県では和紙生産と言えば、小川町が連想されるます。
現在の飯能市域と小川町域の紙舟役(紙すきの道具にかかる税)を『正保田園簿』を比較してみると、埼玉県の特産品として、現在では小川の和紙は有名ですが、当時は飯能市域の方が生産量が多かったようです。
ちなみに飯能市域・小川町域を合わせると。武蔵国全体の実に43パーセントの紙舟役を納めていたことになるようです。

吾野地域の和紙

吾野地域は和紙を生産していたことは確かなようです。

とある文書の中に「我野広紙」という商品名と思われる記述があります。
このことから、かなり広範な販売、流通があったと想像できます。
飯能地方での紙漉家は、大正初期を最後として廃絶し、現在では一軒も存在してません。
これは、この時代から和紙生産に成り代わる産業、林業や織物業が定着して、生業となったことを意味します。
その3へつづく

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